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コウノトリ

執筆者の写真: Sunao HiyamaSunao Hiyama

この数ヶ月、毎日のように死について考える。

若い頃から歩き慣れた、畑道から空を見ながら。傍に立つフェンスに引っかかったロープを見つけると、それから目を逸らせなくなり、じっと食い入るように見つめる。

世界が断絶され、私と、ロープの存在だけが、そこに捨てられている。

私は、コウノトリを観察していた。

コウノトリは、まだ雛で、親が吐き出した餌を夢中で食べていた。親は、一日数回巣に戻った。夜は、雛だけがそこにいた。

風が、轟々と窓を叩く。私はモニター越しにコウノトリを見ている。コウノトリの雛は、親がまた戻ってくるまで、じっとそこに座っている。

何をするでもなく。眠るわけでもなく。空虚を見つめて、風に煽られている。コウノトリは、そうして生きている。そうして、やがて。

やがて。人は何になるのだろう。

私は生きている。私の指はよく動く。よく歌い、よく話す。思慮に耽る。寂しくて笑う。楽しくて泣く。

なぜ?

人はなぜ生きるのか?

惰性なのか。本能なのか。ただ生かされているのか。何かを試されているのか。誰かに憎まれているのか。およそ死ぬ為なのか。

幸せとは何か?満たされることか。何も持たないことか。楽しむことか。苦しむことか。許すことか。許されることか。

世間から、つまはじきにされて、ただ生命だけを持ち、自然と消耗していく。

ただ、人類、という括りの中で、私はその一端に存在する。

大きな波の、ひとしずくになって、命の連鎖を未来に繋いでいる。

波は、どこかへ辿り着いては、また遠く運ばれていく。

ひとしずくの私は、例え一人ぼっちでも、私の持つ空間の端にはまた誰かがいて、一緒になって揺れている。

うねるごとに、その人はどこかへ連れていかれて、私もまた気がつけば、違う波に乗っている。

大人になったコウノトリは、人の波の上を、どこ吹く風で飛んでいく。彼らはたまたま同じ場所に居合わせただけで、その流れは相入れない。

私は今も揺れている。傍のフェンスに引っかかったロープから目を逸らせないまま、頭痛と吐き気に耐えながら、まだじっと自分の巣に座っている。


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