私の名前は、ヘリッグ。
木の精霊、自由奔放な風の魔法使いだ。
私の住む幻想の森には、それぞれ個性豊かな人間が住んでいる。
描いても描いても納得のいく作品が作れない、悩める画家。
神出鬼没、マイペースな仮面のミュージシャン。
自己犠牲を厭わず星の卵を育てる健気な医者や、働き者だが頭が固く、失敗ばかりの小さな魔女。
心に傷を負いながらもいつも笑顔を絶やさない、城に住む美しいお姫様。
森には穏やかな時間が流れている。
皆、朝ごはんをきちんと食べる。食後のミルクは欠かせない。それから、それぞれの仕事を始める。決まった時間はない。日中、誰もが空を見上げる。風を感じる。遠くから聞こえてくるのは、鳥の鳴き声と、音楽家が奏でる音楽だ。私は名ばかりの森の守り番だから、草笛片手に巡回という名の散歩をする。悩める画家の家の前を通ると、画家が真っ白いキャンバスの前で相変わらず頭を抱えていた。先日ミュージシャンと画家と私の三人で昼間からどんちゃん騒ぎをしていたら、働き者の小さな魔女に『道楽トリオ』と言われたことをまだ気にしているのだ。あいつは少々真面目すぎる。画家もミュージシャンも立派な職業だというのに。
私はカフェでフルーツがたっぷり入った紅茶のポットを作ってもらい、画家の家に戻った。「夢色のクジラを見に行かないか?」と誘うと、画家は嬉しそうに大きなスケッチブックと画材を持ってついて来た。たまには気分転換も必要だ。
薄いピンク色の花びらが舞い落ちる湖に、大きな夢色のクジラが住んでいる。夢色のクジラが吹き上げる潮は、この森に夢を与え続ける。けれどもクジラはプライドが高くとてもシャイで、ストレスに弱い。あまり刺激しないように、私たちは岸辺から少し離れて、遠くからクジラが泳ぐのを眺めた。
私は画家のスケッチを邪魔しないように、そっと手元を覗き込む。繊細な線が、白い紙の上に新しい世界を形作っていく。
「こんなもの、誰にでも描ける」以前画家の家で絵を見せてもらった時、画家がポツリと言った。金色の額に入った、深い青色の抽象画だった。私はとても素晴らしいものに見えたが、画家は気に入らないらしい。
「昔は違ったんだ。絵を描き始めた頃は、描きたいものがたくさんあった。でも今は、何を描いたらいいのかわからない。僕は僕の価値がわからないんだ」画家は暗い顔をして言った。
人はそれぞれ違う価値観で生き、その個人というフィルター越しで見る世界がある。
ただ技術が優れた絵に価値がつくわけじゃない。その人の生き方あってこそ、絵に心が現れる。その人の愛が現れる。君が未熟だと言った作品でさえ、その君の心が見えるから、私にはこんなにも愛しいというのに。
「薄っぺらな人生を歩んでいるやつはどこにもいない。人それぞれに、見て、感じてきたものがある。けれど、それを表現することは誰にでもできることじゃない。君の感じた世界を具現化することができる能力は、類い稀なる才能だ。そんな君が描く絵に価値がないわけがない」
私の言葉に、画家はなんだか腑に落ちない顔をした。頑固者の彼が納得できるようになるには、言葉ではなく、時間とそれを裏付ける経験が必要なのかもしれない。
フルーツティーを入れた透明のグラスに、花びらが落ちた。一口啜ると、ほのかに桜の味がした。
「絵ができたら、君にプレゼントするよ。できあがればだけど」画家が私に言った。
クジラが潮を吹き上げた。虹がかかり、キラキラと光る宝石のような夢の欠片が、風に乗って森の中へ消えていった。